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停車場日記

× 東由多加、思い出すままに

2015-04-20 05:06

今日4月20日は東さんの命日だ。
没年2000年、享年54歳。
もうそんなになるかと、わたしは酒を飲んでいる。
墓は生地の長崎にある。
ときどき詣でる。
友人たちと出かけることもあれば、ひとりで行くこともある。
タバコと一升瓶を持参し、
タバコに火をつけ墓石にもたせ、酒は「そっちが一杯」と墓に掛け、
「こっちが一杯」と直飲みで酒をあおる。
ああ、いろんなことがあったねえ。
                           *
今年は行かなかった。
別に行かなくてもいいんだ。
相手は死んでる。乗っかってるのはただの石。
墓参するのはこっちの事情だ。
骨の知ったこっちゃねえんさ。


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東由多加。
早稲田在学中、寺山修司に見出され、
演劇実験室「天井桟敷」の創立メンバーとなる。
多くの作品を演出し、寺山さんの片腕として活躍。
数年後退団。
「東京キッド・ブラザース」を立ち上げ、
日本のオリジナル・ミュージカルの先駆けとなる。
                            *
東さんの天井桟敷退団と、わたしの入団は数ヶ月の差ですれ違っている。
だから天井桟敷では直接のふれあいはなかった。
ただ伝説めいた逸話はいくつか残ってって「いつか会わなきゃ」と手前勝手に思ってた。
                            *
出会いは早々に訪れた。
「地下討論」という本のために、いろんなゲストを呼んで討論会を行った。
わたしが論者のひとりとして参加していたときに、東さんも出席したのだ。
あいにくその本が手元にないので何を話したのかは忘れた。
東さんとは激しくやりあったように思うがよく覚えてない。
そのあと、なにを思ったのか東さんが「あんた、飲める?」と訊いてきた。
わたしが「まあ、少々」と答えると「じゃ行こ」ということになった。
こうして東さんとのつきあいがはじまった。
                             *
その後の東さんとのエピソードを書こうとすればキリがない。
だから端折るが、要は当時のわたしはかなりアブナイやつだったし、
東さんもムチャしてた。
飲みに行ってケンカ沙汰になることもしばしばあった。
東さんは逃げ足が早かったが、わたしは「さあ殺せ」というタイプだったので、
ボコられるのはいつもわたしだった。
                             *
「東京キッド・ブラザース」は急速に頭角をあらわし、
一方わたしは天井桟敷を退団した。
「何してる?」と訊かれたので「別に」というと、
「キッド手伝ってよ」と誘ってきた。
ただわたしは勢いのあるキッドに便乗するような気がして「ダメです」と答えた。
(誤解があると困るが、わたしはキッドの正式な劇団員であったことは一度もない)。
それでもキッドの事務所にはよく出入りしてて、
麻雀をしたり、花札を引いたりしていた。
                              *
おのずから制作や演出の手伝いもやりだすようになった。
そのたびに「劇団員じゃないですから」と断りを入れ、
東さんは「まあ社外ボランティアということで」と笑った。
一緒に全国ツアーもした。ヨーロッパ公演にもつきあった。
楽しかったよね、あのころさ、ね東さん。
                              *
キッドには大きく分けて前期、中期、後期があるような気がする。
前期は旗揚げからの数年。
「黄金バット」や「東京キッド」などに代表される、
荒削りでスリリングな、時代を切り裂くような作品群だ。
歌、下手。ダンス、下手。演技、さあ。
というような集団であった。
だがそこには殺意があり、実験性にあふれていた。
わたしがもっともキッドを愛した時期でもあった。
                              *
中期。
東さんはある時期からわたしに、しきりに「ドリフターズになりたいんだ」というようになった。
「ドリフって、あの?」「うん、あれがオレの理想だ」。
要は有名になって金を稼ぎたい、そういうことだと理解した。
当時のキッドは知る人ぞ知るの中堅劇団だが、
劇団員はみんなアルバイトで生活していた。
劇団員にギャラを払いたい、それが東さんの目標となった。
                               *
「じゃあロック・ミュージカルをやめてフォーク・ミュージカルにすれば」
と口をすべらせたのはわたしだ。
「それだ!」と東さんは叫んでタレント名鑑に印をつけはじめた。
「この人たち、片っ端から電話して」と頼まれた。
取り壊し予定の狸穴のぼろ家でわたしは電話をかけまくった。
拓郎、陽水、泉谷しげる、とにかく有名どころのフォークソングライターに作曲を依頼した。
むろん断られつづけた。
唯一小椋佳が「興味がある」といってくれた。
つぎは主演の役者をと、これも電話をかけてまわった。
加川良が引っかかってきた。
東さんは最初は乗り気じゃなかった。
「背が低いよね。顔でかいし」
「でも男前だよ。それにもうあといないよ」
で、加川良主演、小椋佳作曲の「十月は黄昏の国」が出来た。
傑作とは言いがたいがまずまずの作品になり大ヒットした。
                               *
このあと悪口を書くかもしれないが、
中期のキッドの扉を開いたのはわたしだ。責任を感じる。
「十月……」のヒットに気をよくした東さんはそこにスローガンとして「愛と連帯」を打ち出した。
わたしは「恥ずかしいからやめてくれ」といった。
東さんは「いま求められているのはこれなんだ」と譲らない。
わたしは少しづつキッドから距離をとりはじめた。
その後の作品群には初期キッドにあった殺意も斬新さも感じられなかった。
ただ甘ったるいセリフのやりとりと泣きながら歌うという反則のテクニックだけが残った。
もっともそれが功を奏したのか、あるいは柴田恭兵というスターを得てか、
またたくまにキッドは全国区のミュージカル劇団となり、
チケットは飛ぶように売れた。
                              *
キッドが高松公演を行ったとき楽屋見舞いに行った。
(旧)市民会館の楽屋口には柴田の出待ちの女性であふれてた。
柴田に「おめえもすっかりスターだな」というと、
「ウエムラさん、東京じゃこんなもんじゃありませんよ」とナマイキ抜かした。
だが嬉しかった。よくぞここまで、という感慨があった。
打ち上げがハネてのち、キッドの劇団員でもあり、いまでも親友のMとほかの店に流れた。
その店でMは「やっと給料が出るんだ。芝居だけで食えるんだ」と男泣きに泣いた。
わたしも感極まって、その店はそいつにおごらせてやった。
                              *
ここからは辛い。
よほど書くのはよそうと思ったが、一区切りつけるためにも書き留めておこう。
絶頂期は7、8年つづいたろうか。
そのうち柴田恭兵が退団した。
次期主役であると目されていた三浦浩一が退団した。
ともに純アリスが退団。
坪田直子も去って行った。
キッドの主力メンバーが相次いでいなくなったのだ。
                               *
とある日、東京に東さんを訪ねた。
東さんはまだ昼間だというのにグデングデンに酔っていた。
「やつらオレなんか愛していなかったんだ。踏み台にしただけなんだ」
「まあ、みんな事情があるんだし……」
「愛されないんだ、オレは!」
「そんなことないよ、いまだって東さんのこと好きだっていってる人はいっぱいいるよ」
「いねえよ、バカ。オレは騙されてばかりだ」
「MだってKだっているし、残った劇団員だって東さんが好きだからついてきてくれてんだよ」
「ウエムラさん、オレを愛してる?」
「もちろんだよ、大親友だと思ってる」
「なら、オレを捨ててなぜ四国に帰ったんだ!」
                                 *
わたしは直感した。
あれだけ「愛と連帯」に固執した男がその実「愛」を信じてないんだ。
この世でもっとも孤独な男がここにいる。
                                 *
後期はさらに悲惨なことになる。
主役の穴埋めのためにキッドの兄弟劇団「パンとサーカス」から、
男優のSと女優のS(T)をヒーロー・ヒロインに抜擢した。
Sはなかなかのイケメンだったが大根だった。
なにより俳優に不可欠のオーラがなかった。
女優のS(T)は、あろうことか当時の東さんの愛人だった。
積み上げるのは大変な作業だが、崩そうとすれば一気だ。
それになにより東さん自身にいい作品をつくろうという意欲がなくなっていた。
                               *
それでもキッドのブランド力か、
数年はそこそこの公演が打てた。
だが観客もばかじゃない。キッドの作品が魅力を失っていることに気づきはじめた。
潮が引くように動員力を失い、
遺作となった「深川ものがたり」は(ハッキリいっておこう)素人芝居にも劣る駄作だった。
じつはその前後、わたしはある種の決心をしていた。
仕事を一時中断し、東さんのもとへはせ参じようと思っていたのだ。
なんでもいい、キッドを立て直せるなら、どんな手伝いでもしようと。
                                     *
相前後してMから電話があった。
「東さんさ、食道ガンなんだって。かなり進行してるみたいだよ」
手術はニューヨークで行われた。
そのときの手紙がある。
……ニューヨークに来ています。
   芝居の件、K(本文・本名)さんがぼくのからだを心配したのでしょうが、
   積極的になれずあなたを怒らせてしまったと聞いています。
   最後の芝居だけは(中略)みんながかついでくれるオミコシに
   乗ってみようと考えていたのですが、
   どうやらそれは虫がよすぎる話だったかもしれませんね。云々。とあって、
   末尾には、機会を見つけてまた飲みましょう。
                                      *
わたしは泣いた。
ああ、怒っているとも。
なにが「最後の芝居」だ「オミコシ」だ。
ぶん殴って治るもんならいますぐニューヨークに飛んでいって殴ってやる。
                                       *
最後にあったのは日本がんセンターだった。
読みかけの本は「エリア・カザン自伝」だった。
「ちょっと散歩しようか」
「うん」
「がんセンターにも穴場があってね」
と非常階段につれていかれた。
「ここだと、ほら、タバコが吸えるんだ」
東さんは手すりにもたれて旨そうにタバコを吹かした。
わたしはそれをとがめず、
一緒にタバコを吸った。
「捨てたもんじゃないだろう?」
「ああ、がんセンターでタバコを吸うとはね。やるね、東さん」
たがいにククッと笑った。
「じゃあバーに行こう」
「そんなトコあんの?」
「あるんだ」
最上階の食堂で、東さんは「水ちょうだい」といった。
ウェイトレスが運んできた水に、ポケットに隠していたウィスキーを一滴落とし、
「いまはこれで酔えるんだ。安上がりだろ」
ふたりは笑った。
「ウエムラさん、いけるんだから飲んでよ」
「いまはいいですよ。今度はちゃんとしたバーで」
                               *
「ねえねえ東さん、ポスターつくろうよ、芝居の」
「なんのために?」
「東由多加、復帰第1作目のポスターさ」
「いつやるのよ」
「退院したらすぐだよ。会場もオレ押さえるし、役者も揃える」
「おもしろいな。作品はないけどポスターは貼られてる」
「そう、オレとびっきりのポスターつくるからさ。タイトル考えてよ」
「それウエムラさんに任すよ」
「ダメダメ、タイトルだけは東さん決めてよ」
「うーん、いいの思いつくかな」
「思いつくって、ぜったい。オレ高松でスタンバってるからタイトル決まったら電話してね。約束だよ」
「わかった約束だ」
                             *
その日、わたしは帰高し、その3日後、東さんの訃報が届いた。
                             *
思い出すなあ、次々と。
一緒に遊んだこと、てか飲んでバカやったこととかさ、
ケンカもしたなあ。
苦しいこともいっぱいあったけど、なんとかなったよな。
おもしろかった。
ああ、おもしろかった。
                             *
 ・由多加忌や背に羽根の記憶残れり  愛をこめて(ウエ


 



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コメント

× 1つの同じドア

2018-07-12 17:47

東さんが関わっていたタイトルの舞台てどんな内容だったのでしょう。「私の中の私達」て主題歌が小椋さんのアルバムに納められてて良く(…?)聴いたのを何となく覚えています。
  1. URL
  2. うぼで #qxbQVzMc
  3. Edit

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